1962年、琴似町八軒の地に、高校生急増問題にこたえつつ、学園が念願していた、プロテスタント・キリスト教による男子普通高校を実現させ、北星学園男子高等学校が誕生した。最初の屯田兵入植地・琴似に学園教育開拓の精神が根付く。山崎校長をはじめ創立期の教職員たちは、新しい学校づくりに意欲と情熱を傾けた。
4月235名の第1期生を迎え、教育活動をスタートさせたが、教育環境や条件は劣悪だった。校舎建築工事は3期にわたっていたため、開校のときには管理棟と北側校舎のみで、渡り廊下で体育授業を行う有様だった。グランドは広大だったが、当初はまだ一面雑草だらけで、馬が放牧されていたりした。
学校体制は、しかし、徐々に整えられていく。生徒会が誕生し、植樹など環境整備活動、また修養会、弁論大会、文化祭などの行事に取り組む。創立記念手稲山強行登山が開始される。PTAも結成され、校舎建築に関わるなど積極的な活動を展開していく。だが生活指導など現実はきびしいものだった。職員会議はたびたび深夜に及んだ。その中で、教師たちは今後の学校づくりの方向を模索していったのである。第1回教職員研修会が開かれ、討論のすえに「教育規範」を全員で確認しあった。その直後に教職員集団は大きな試練を受ける。第1回文化祭の直後に起こった。「聖火ランナー応援事件」である。生徒集会をとおして、彼らの不満や要求が噴出した。「差別教育反対!」「先生との信頼関係を密接に!」―『教育規範』の精神が検証された。「生徒を信頼し、生徒の真直な成長のために奉仕する」教育=民主的な人間教育の立場と方向が追求されていく。
この時期は、教職員・生徒・父母による学校づくりの開花日とも言える時期であった。第3代・石突校長時代に入る。教師研修会は、自主的な教育運動として定着していく。本校の教育方針を示してきた「教育規範」は、研修会などの討議をふまえて、「教育綱領」となり、一層体系的に整理されていく。生徒会活動も前進した。
修養会はサマーキャンプとなり、文化祭は”フィリア”(友愛)祭と改称される。文化月間は講演、観映、意見発表会、合唱コンテスト、壁新聞など、多彩に企画された。最初の憲法学習会(67年)は生徒会主催で実施された。クラブ活動も盛んで、多くの成果を生んでいる。何よりも生徒会の成長を示したのは、第1回全校討論集会の企画と運営をとおして、全校生徒を結集し、集会を成功に導いた力であった。
PTAもまた、”学習し、行動する自主組織”への脱皮を着実に進めていく。総会時の後援会、独自の学習会などを企画、成功させていく。PTSによる三者懇談は毎年のように起こる校納金値上げ問題だけではなく、日常の生活や学習に関する親子の対話の場ともなっていった。民主的な教育づくりを目指していた本校の教師集団として、内外の政治・教育情勢に無関心でいることはできなかった。「恵庭・長沼事件」「紀元節復活」「靖国神社国営化」「家永訴訟」「教育課程改訂」など、憲法と教育基本法の精神に逆行し、民主教育の前進を阻害するような動きが強まっていたからである。
「大学紛争」の時期、その影響を受けた執行部が成立したが、全校生徒の支持を得られず、短時日で辞任した。彼らの主張や行動を厳しく批判したのは生徒の中の良心であったが、一連の混乱の中で生徒会不信や無関心の空気が広がっていく。しかし、2年間の「代行」執行部の下で、フィリア祭をはじめ諸行事は取り組まれた。特に、一連の「自由化」の集大成でもある「制服自由化」を実現させた生徒たちは、ついに自らの手で生徒会再建をかちとっていく。72年春に突然起こった「校舎移転問題」では、教育と経営が厳しく対峙した。教職員・父母・生徒は「本建築」「共学」実現を条件に、やむなく承諾した。だが、外的事情からこの問題は突然に破棄された。
「移転問題」をとおして、教職員集団は、学校運営の一層の民主化の必要性を痛感し、校長・総務部などの公選制を実現させた。全教職員の選挙によって、松田平太郎学校長が誕生する。新体制の下で、教職員集団は、これまで以上に多面的・自主的に教育活動に取り組んでいった。生徒・父母との連携を強め、さらに琴似地域の教育要求にこたえ、「西区市民会議」の活動に参加していく。全盲生受け入れなど統合教育の一端を担い、直接請求を含む私学助成署名運動にPTA、生徒会と共に学校ぐるみの取り組みを前進させていく。学力向上と進路に対応した教科実践__「自主編成」が重要課題として認識されていく。HR集団づくりを目指す担任教師の「学級通信」活動の輪が着実に拡がっていく。
生徒会もまた、フィリア祭・校納金値上げ問題など積極的な取り組みを強めていく。さらには、生徒の中に起こった諸問題の自主的・集団的な解決を目指して、生活改善運動を全校に提起していく。
PTA活動も着実に前進した。特筆すべきことは、HR父母会活動の定着、委員会体制の拡充、行事参加など日常的な学校(教師・生徒)との連帯の拡がり、である。「北星の教育を語り支える会」もこの時期に結成される。
永久校舎の建設─開校以来の悲願がついに実現した。野幌森林公園を背景にした丘の上に新校舎が完成、喜びと希望の移転をした。
琴似時代の教育・学校づくりを継承しながら、新しい地域での教育活動がはじめられた。この時期の特徴的実践として、第1に、「地域に開かれた学校づくり」をめざす公開講座のとりくみがある。第2に、「創立20周年記念演奏会」から出発した「教育の夕べ」(毎年11月)がある。第3に「山びこ学校」(新入生オリエンテーション合宿)。そして第4に、全道にも誇れる私学助成署名運動のとりくみがある。父母・生徒・教職員・卒業生たちを軸に、市民の教育要求が結集される秋である。
こうした新たな実践の土台には生徒の可能性を信頼し、父母・地域に支えられる学校づくりをめざす日常的な諸活動がある。多くの弱点や課題を持ちながら、HR集団づくりや行事、授業、クラブ活動を通じて、「共育」しあう生徒と教師の集団が形成されている。全校父母研修会を組織するPTA(父母集団)のエネルギーがある。─新しい地域のなかで、民主的な私学づくりをめざす諸活動は着実に前進しつつある。
「共学」の夢がついに実現するときがきた。86年1月の教師研修会後、「今度こそは」と決意を固める。その後、理事会などとの協議、校名検討、校舎改修、制服決定など、他校の経験を学びつつ、準備をすすめていった。
─そして、今年4月10日、第26回入学式。そこには、男子に加えて124名の女子生徒の顔々があった。それは本校の新しい歴史のはじまりを象徴していた。共学移行は「男子校」からの訣別ではない。むしろ今までの歴史の財産・伝統の継承であり、「人間教育」という本校の教育理念実現へ向かう新たな一歩にほかならない。
新札幌高等学校として「文理クラス」の在り方の検討を繰り返すと共に、学園三校「沖縄への修学旅行の実施」や「勉強合宿、小論文指導」などの学習指導の実践的な発展を経過する一方、情報教育の充実を目指し、道内では珍しかった「HPの発信」と情報設備の充実を行なった。さらに、これらの実践に呼応するように生徒会活動では、「フィリア祭」や「私学助成金署名運動」の大幅な見直しや、戦後50年の学園の取り組み('95年)と同時に「平和宣言」発表し、'99年には、'93年度から開催を見送っていた「生徒総会」復活と 「ガイドライン法案に関する声明文」を発表した。
そのような実践を積み重ねる一方で、1996年以降、北星学園は「将来構想」の全般的検討作業に入った。 その動きに対応して本校も新たな将来展望作りをめざすとりくみを開始した。 「将来構想検討委員会」(96〜97年)を引き継いだ「教育改革推進委員会」(98〜99年)を軸とする諸議論の中から、新カリキュラム実施の課題とあわせて「大学附属化」実現が現実的選択肢として浮上してきた。 学内的、学園的とりわけ大学側との諸協議をへて、それは「2002年度実施」で合意をみたのであった。 2001年度はその具体化のための検討であわただしく推移した。 「高大連携会議」の定期的開催を通じて、大学推薦枠拡大と高校側からの推薦条件・基準問題を含む高大連携(接続)に関わる諸問題を相互に協議、決定した。
大学附属化実施を前提に、この間、学内機構改革を含む教育諸改革に取り組んできた。その一つは2002年度入学生からの「(従来の「文理コース」に代わる)進学コース」の設置と教育水準(学力向上を含む)のレベルアップをめざすという取り組み、二つに、教師の集中点強化をめざす分掌改革を含む機構改革および諸行事の精選、授業体制上の改善などの取り組みである。これらの改革的諸実践が有効な成果をどれほどあげ得るか。それは今後の教職員の一丸となった努力と生徒・父母・同窓生他の「支援」に依拠するほかない。本校が大学附属化実施に踏み切るということは、その存続に関わるほどの重大な局面に立たされていくことになる。教職員全体の新たな意思統一に必要を迫られるのであった。
大学附属となった2002年度から、いくつかの新たな取り組みをスタートさせ、 附属校としての3期生を卒業させた現在もなお、附属校の特徴として位置づけている。
その特徴は、 1つはキリスト教学校として、他者に聴き、知る力を養う全校礼拝の理念継承。 2つ目に、学習到達点へ向けた「授業改革」「集中講義・放課後講習・土曜講習」「漢検、英検の指導の充実」「マラソン追試」などの学習活動の取り組み。 3つ目には、大学との高大連携の充実と共に「情報教育」「英語教育」の大学連携教育充実に向けて練られたシラバスの実践。 さらに4つ目には、「情報リテラシー教育」と「総合・研修」「総合・論文」の連結・接続である。 私たち附属高等学校の「学び」は、「他者に聴き、自己に問い、他者に伝える」という「共育」のプロセスを辿ることにより、 さらに探究し学びを深める「知る力」を養う教育となることを確信し、現在もなお、追求し続けています。