学校案内
本校の校章は、キリストによる真理を探究し、光を求めて前進する生徒の雄々しい姿を示しています。
中央の星は「北星学園」と「希望」のシンボル。
他の部分は2つの意味を込めています。一つは「北海道」を象徴する雪の結晶。もう一つは「魚」の形象です。
「魚」はローマ皇帝の迫害に耐え抜く原始キリスト教時代の信徒たちのしるしであり、本校がキリスト教学校であることを象徴しています。
(大本靖氏制作)
作詞:西森 茂夫 加藤 愛夫
/作曲:二俣 松四郎
序、
陽の光 水の面にわたらず
厚き雲 低くたれたり
いくさ わざわい いまだ断たれず
さかまく嵐にあかつきを呼ぶはたがうたぞ
一、
ああわが学友よ 青春の潮
北星の学園にたぎらして
歩みゆく日々は 解放の人
イエスの御跡ぞ
われらつねに地の塩となりて
わが学園を自由あふるる庭となさん
二、
新しき教えに 希望あふれる土
大空の北極星のもと 真理もとめつつ
歴史つちかい 学ぶわれらぞ
われら一粒の麦となりて
わが学園を正義みつる園生となさん
結、
ああ 北星 北星 北星
つどいよる一千の学友
理想の旗を高く揚げて
永遠の平和 守りてゆかん
われらは使徒ぞ
草創のとき ~創立期の北星学園男子高等学校~ (1962〜1964)
この時期は、教職員・生徒・父母による学校づくりの開花期とも言えるものであった。第2代・石突征校長時代に入る。教師研修会は、自主的な教育運動づくりを目指す諸活動の一つとして定着していく。本校の教育方針を示してきた「教育規範」は、研修会などの討議をふまえて、「教育綱領」となり、一層体系的に整理されていく。生徒会活動もその体制や諸行事を整えつつ前進した時期であった。
修養会はサマーキャンプとなり、文化祭は”フィリア”(友愛)祭と改称される。文化月間は講演、観映、意見発表会、合唱コンテスト、壁新聞など、多彩に企画された。最初の憲法学習会(1967年)は生徒会主催で実施された。クラブ活動も盛んで、多くの成果を生んでいる。何よりも生徒会の成長を示したのは、第1回全校討論集会の企画と運営をとおして、全校生徒を結集し、集会を成功に導いた力であった。PTAもまた、”学習し、行動する自主組織”への脱皮を着実に進めていく。総会時の後援会、独自の学習会などを企画、成功させていく。PTSによる三者懇談は毎年のように起こる校納金値上げ問題だけではなく、日常の生活や学習に関する親子の対話の場ともなっていった。民主的な教育づくりを目指していた本校の教師集団として、内外の政治・教育情勢に無関心でいることはできなかった。「恵庭・長沼事件」「紀元節復活」「靖国神社国営化」「家永訴訟」「教育課程改訂」など、憲法と教育基本法の精神に逆行し、民主教育の前進を阻害するような動きが強まっていたからである。
自由と連帯を求めて(1965〜1968)
この時期は、教職員・生徒・父母による学校づくりの開花期とも言えるものであった。第2代・石突征校長時代に入る。教師研修会は、自主的な教育運動づくりを目指す諸活動の一つとして定着していく。本校の教育方針を示してきた「教育規範」は、研修会などの討議をふまえて、「教育綱領」となり、一層体系的に整理されていく。生徒会活動もその体制や諸行事を整えつつ前進した時期であった。
修養会はサマーキャンプとなり、文化祭は”フィリア”(友愛)祭と改称される。文化月間は講演、観映、意見発表会、合唱コンテスト、壁新聞など、多彩に企画された。最初の憲法学習会(1967年)は生徒会主催で実施された。クラブ活動も盛んで、多くの成果を生んでいる。何よりも生徒会の成長を示したのは、第1回全校討論集会の企画と運営をとおして、全校生徒を結集し、集会を成功に導いた力であった。PTAもまた、”学習し、行動する自主組織”への脱皮を着実に進めていく。総会時の後援会、独自の学習会などを企画、成功させていく。PTSによる三者懇談は毎年のように起こる校納金値上げ問題だけではなく、日常の生活や学習に関する親子の対話の場ともなっていった。民主的な教育づくりを目指していた本校の教師集団として、内外の政治・教育情勢に無関心でいることはできなかった。「恵庭・長沼事件」「紀元節復活」「靖国神社国営化」「家永訴訟」「教育課程改訂」など、憲法と教育基本法の精神に逆行し、民主教育の前進を阻害するような動きが強まっていたからである。
試練を乗り越えて(1969〜1972)
「大学紛争」の時期、その影響を受けた執行部が成立したが、全校生徒の支持を得られず、短時日で辞任した。彼らの主張や行動を厳しく批判したのは生徒の中の良心であったが、一連の混乱の中で生徒会不信や無関心の空気が広がっていく。しかし、2年間の「代行」執行部の下で、フィリア祭をはじめ諸行事は取り組まれた。特に、一連の「自由化」の集大成でもある「制服自由化」を実現させた生徒たちは、ついに自らの手で生徒会再建をかちとっていく。1972年春に突然起こった「校舎移転問題」では、教育と経営が厳しく対峙した。教職員・父母・生徒は「本建築」「共学」実現を条件に、やむなく承諾した。だが、外的事情からこの問題は突然に破棄された。
民主化の拡がりの中で(1973〜1980)
「移転問題」をとおして、教職員集団は、学校運営の一層の民主化の必要性を痛感し、校長・総務部などの公選制を実現させた。全教職員の選挙によって、第3代・松田平太郎校長が誕生する。新体制の下で、教職員集団は、これまで以上に多面的・自主的に教育活動に取り組んでいった。生徒・父母との連携を強め、さらに琴似地域の教育要求にこたえ、「西区市民会議」の活動に参加していく。全盲生受け入れなど統合教育の一端を担い、直接請求を含む私学助成署名運動にPTA、生徒会と共に学校ぐるみの取り組みを前進させていく。学力向上と進路に対応した教科実践では「自主編成」が重要課題として認識されていく。HR集団づくりを目指す担任教師の「学級通信」活動の輪が着実に拡がっていく。
生徒会もまた、フィリア祭・校納金値上げ問題など積極的な取り組みを強めていく。さらには、生徒の中に起こった諸問題の自主的・集団的な解決を目指して、生活改善運動を全校に提起していく。PTA活動も着実に前進した。特筆すべきことは、HR父母会活動の定着、委員会体制の拡充、行事参加など日常的な学校(教師・生徒)との連帯の拡がりである。このような父母による教育活動の中から卒業生父母を中心に「北星の教育を語り支える会」が結成された。
理想の旗を掲げて ~「共育」しあう生徒と教師の集団形成~ (1980〜1986)
新校舎の建設─開校以来の悲願がついに実現した。野幌森林公園を背景にした丘の上に新校舎が完成(1980年)、喜びと希望の移転を行った。
琴似時代の教育・学校づくりを継承しながら、新しい地域での教育活動がはじめられた。この時期の特徴的実践として、第1に、「地域に開かれた学校づくり」をめざす公開講座のとりくみがある。第2に、「創立20周年記念演奏会」から出発した「教育の夕べ」(毎年11月)がある。第3に「山びこ学校」(新入生オリエンテーション合宿)。そして第4に、全道にも誇れる私学助成署名運動のとりくみがある。父母・生徒・教職員・卒業生たちを軸に、市民の教育要求が結集される秋であった。
こうした新たな実践の土台には生徒の可能性を信頼し、父母・地域に支えられる学校づくりをめざす日常的な諸活動がある。多くの弱点や課題を持ちながら、HR集団づくりや行事、授業、クラブ活動を通じて、「共育」しあう生徒と教師の集団が形成されている。全校父母研修会を組織するPTA(父母集団)のエネルギーがある。─新しい地域のなかで、民主的な私学づくりをめざす諸活動は着実に前進しつつある。
明日への旅立ち ~北星学園新札幌高等学校として~ (1987〜1991)
「共学」の夢がついに実現するときがきた。1986年1月の教師研修会後、「今度こそは」と決意を固める。その後、理事会などとの協議、校名検討、校舎改修、制服決定など、他校の経験を学びつつ、準備をすすめていった。─そして、1986年4月10日、第26回入学式。そこには、男子に加えて124名の女子生徒の顔々があった。それは本校の新しい歴史のはじまりを象徴していた。共学移行は「男子校」からの訣別ではない。むしろ今までの歴史の財産・伝統の継承であり、「人間教育」という本校の教育理念実現へ向かう新たな一歩にほかならない。
新たな将来展望へ(1992〜2001)
第4代・小嶋孝明校長(1991年)を中心に教育改革を進め、新札幌高等学校として「文理クラス」の在り方の検討を繰り返すと共に、学園三校「沖縄への修学旅行の実施」や「勉強合宿、小論文指導」などの学習指導の実践的な発展を経過する一方、情報教育の充実を目指し、道内では珍しかった「HPの発信」と情報設備の充実を行なった。さらに、これらの実践に呼応するように生徒会活動では、「フィリア祭」や「私学助成金署名運動」の大幅な見直しや、戦後50年の学園の取り組み(1995年)と同時に「平和宣言」発表し、1999年には、1993年度から開催を見送っていた「生徒総会」復活と「自衛隊の海外派遣ガイドライン法案に関する声明文」を発表した。そのような実践を積み重ねる一方で、時代は1993年をピークとする生徒急増期から急激な少子化の時代を迎えていた。1996年以降、北星学園は「将来構想」の全般的検討作業に入った。その動きに対応して本校も新たな将来展望作りをめざすとりくみを開始した。「将来構想検討委員会」(1996年~1997年)を引き継いだ「教育改革推進委員会」(1998年~1999年)を軸とする諸議論の中から、新カリキュラム実施の課題とあわせて「大学附属化」実現が現実的選択肢として浮上してきた。学内、学園内の討議を積み上げて、とりわけ大学側との諸協議をへて、それは「2002年度実施」で合意をみたのであった。
2001年度はその具体化のための準備期間でありあわただしく推移した。「高大連携会議」の定期的開催を通じて、大学推薦枠拡大と高校側からの推薦条件・基準問題を含む高大連携(接続)に関わる諸問題を相互に協議、決定した。
大学附属化実施を前提に、この間、学内機構改革を含む教育諸改革に取り組んできた。その一つは2002年度入学生からの「(従来の「文理コース」に代わる)進学コース」の設置と教育水準の向上をめざす取り組み、二つに、教師の集中点強化をめざす分掌改革を含む機構改革および諸行事の精選、授業体制上の改善などの取り組みである。これらの改革的諸実践が有効な成果をどれほどあげ得るのか、附属化を目指す本校にとって、これまでの歩みとは大きく異なる課題であり、大きな挑戦でもあった。それは教職員が一丸となった取り組みを進め、生徒・父母・同窓生とも共同し、大学の力に依拠しつつ教育成果を向上させる取り組みが求められたものである。
また、少子化の進行の中で学校生き残りの道を探りつつ、受験競争偏重の時代的風潮の中でプロテスタント・キリスト教の精神を土台とした「人格教育」に挑む取り組みでもあった。
新たな実践へ ~北星学園大学附属高等学校として~(2002〜2008)
北星学園男子高校(1962年)から北星学園新札幌高校(1986年)、そして北星学園大学附属高校(2002年)と三度目の校名変更が行われ、「活気のある学校づくり」を目指し、いくつかの新たな取り組みをスタートさせた。まず、大学附属高としての高大接続教育。ここでは「情報教育」「英語教育」の大学連携教育充実に向けて練られたシラバスの実践を探った。そして「共育」の具体化としての「指定強化クラブ」政策、さらに北星学園大学をはじめとする「進路指導」の充実。また、修学旅行を総合研修旅行へ一新し、沖縄(国内コース)、韓国コース、中国コース、ベトナムコース、シンガポール・マレーシアコースを設置し、生徒自身のコース選択と事前学習の充実、旅行後のまとめ学習など異文化、平和学習を中心に生徒自身の生き方を考える取り組みの開始などに着手したのである。
理念の継承と実践の発展へ ~教育目標と教育方針の実践へ~ (2009〜現在)
2008年度より、附属高校にはその教育として、「大学接続教育」と「クラブ指導」、「進路指導の強化」が求められた。2009年度には、「普通コース」を廃止し、「特別進学コース」を設置し、「進学コース」と「特別進学コース」の2コース制とした。そのため、改めて「大学接続教育」「クラブ指導」「進路指導」の3つの柱を貫く教育目標と教育方針づくりを進めた。本校創立時の「教育綱領」や「教育規範」などの理念継承に立ち返りつつ、本校が求めている教育実践を見直し、「教育目標」と「教育方針」を定めた。その方針通り、生徒たちの視野を広げるとともに学びへ高めるため、本校教育の軸とする「総合学習」を始め、学びの質を高める取り組みの研究と実践が追求されつづけている。